2013年2月10日
2月9日、日経朝刊「ストラビンスキー」 |
ロシア人作曲家(後に米国に亡命)、イゴール・ストラビンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882 – 1971)によるバレー音楽「春の祭典」の初演(1913年、パリ)から今年で100年。
このことを記した日本経済新聞、2月9日(土)朝刊、文化欄の「輝き健在」、「沸き立つリズムで魅了」という見出しは「常識破りの楽曲・振付」「初演の劇場、怒号渦巻く」と続き、そのセンセーショナルな様子がビビッドに伝わってくる。
同記事で、音楽評論家諸石幸生氏は「古典と言い切ってしまうと価値が減じる、そんな独創性を備えた作品」としている。確かに。この100年後の今でも、「古典ファン(「胡桃割り人形」や「コッペリア」の楽しさ、「ジゼル」の黄泉の国における群舞の美しさ、など)」筆者には難解である、と白状しておかねばならない。
筋書きは、対立する村同士の抗争、大地礼賛と太陽神の怒り。生贄に選ばれた処女が、長老たちの車座のなかで死ぬまで踊り狂う、というもの。キリスト教化される以前のロシアの原始宗教が根底にあるといわれ、ストラビンスキーは「白日夢で見た異教徒の儀式から着想を得た」と自伝で記しているよし。
とまれ、そこから以下、筆者の知りえたワクワクするような人間模様を手繰ると、時を超え西東(ゲーテの詩集になぞらえて言えば)を結ぶ文化の伝達、変遷を知ることができる。
この「春の祭典」は、「バレー・リュス」の主宰者芸術プロデューサ、ディアギレフ(Sergei Diaghilev1872 – 1929) の依頼による作曲だ。バレー・リュス(仏 Ballet・Russe)とはロシア・バレー団だ。
(ディアギレフは)「生涯に一度もステップを踏んだことはないし、振付もせず、一小節も作曲をせず、一枚の絵も描かず、一着の衣装もデザインせず、一シーンのセットも作ったことがなかったけれども、彼は今世紀最大の芸術家」。
ソノ・オーサト自伝から(1935-1939) |
これは、(後に)そのロシア・バレー団で活躍した日系バレリーナ、ソノ・オーサト(1919 -、在ニューヨーク )の言葉だ。(「秘められたスター」亀山満、パイポ出版。52頁)。
【第34回】 番外編「踊る大紐育(ニューヨーク)」 - 浜地道雄の「異目異耳」
その、ソノ・オーサトの自伝「Distant Dances:ALFRED A. Knoph, NY1980」は、幼くして訪れた父の母国、日本で経験した関東大震災(1923)の恐怖から始まり、海外公演も含め実に詳しい脈々とした年代記をもって、バレーの文化史を語っている。
それによると、件(くだん)の1913年のパリでの「春の祭典」初演はこうだった(実際に出演した先輩Lynda Sokolovaからの伝聞):
「観客は音楽が始まるやいなや、野次をとばし、大声で叫び、口笛を吹き鳴らした。ストラヴィンスキーの魔性の音楽のすさまじいひびきに合せて舞台を駆けまわっていた踊り手たちが驚いて舞台の袖を見ると、ニジンスキー(振付をしたバレリーナ)が足を踏み鳴らして拍子をとっていた。ディアギレフは昂然と立ちつくしていた。全体の大混乱は最後の幕が降りるまで続いた。ストラビンスキーは観客に向かって、『畜生、くたばれ』と叫んで劇場を飛び出していった。」(翻訳;「踊る大紐育」薄井憲二訳、晶文社、184頁。原著P142)
その後、ストラビンスキーは1939年米国に亡命。ハーバード大学で教鞭をとる。1959年には来日、NHK交響楽団で「火の鳥」を指揮。その時、若手作曲家武満徹を見出し、これが後に、バーンスタインがNYフィルの125周年記念の曲(ノヴェンバー・ステップス1967)を武満に委嘱するきっかけとなった。
そして、1969年、NYに転居。1971年89才で没し、ディアギレフの眠るヴェネチアのミケーレ島に埋葬された。
このように、ロシア人ストラビンスキーは⇒フランス⇒米国に帰化したということで、ハーバード、バーンスタイン、NYフィルハーモニーへとつながる。
1960年には、バーンスタインのTV音楽番組で、NYフィルを指揮した。
バーンスタイン没後20周年に向けて(上) 音楽映像のリリース−JanJanニュース(写真2。曲目は「火の鳥」)
ソノ・オーサトはバーンスタインの「On the town踊る大紐育」のプリ・マドンナであった。
【第138回】ミュージカル「踊る大紐育」主役を訪ねる(NYC) - 浜地道雄の「異目異耳」
さて、ここから話は世界を揺るがす中東紛争、なかんずく「アラブ・中東の春(説の誤謬)」に移るのだがやや飛躍の感も否めないので、稿を改め、2/2とする。https://hamajimichio.hatenablog.com/entry/2020/08/19/000000