浜地道雄の「異目異耳」

異文化理解とは、お互いに異なるということを理解しよう、ということです。

【第197回】バーンスタイン没後20周年に向けて(上) 音楽映像のリリース

 

2009年12月28日

 

f:id:TBE03660:20210221142607j:plain

バーンスタイン・NYフィルの「ヒストリック・テレビジョン・スペシャル」

2009年、感慨深い年が去ろうとしている。  

ボランティアで推進していたNYフィルによる「Young People’s Concert」が新鋭アラン・ギルバートによる指揮で実現した。(10月10日)  

港区の公立小学校の子供たちが作った曲を若きマエストロ、ギルバート監督が咀嚼、解釈し、世界のNYフィルがそれに応じて演奏する! 

子供たちの輝く眼! 夢の実現だった。

 

 

サントリーホール エデュケーション特別企画 

http://www.suntory.co.jp/suntoryhall/sponsor/091010.html

小さな作曲家 

http://janjan.voicejapan.org/culture/0907/0907207458/1.php

NYフィルの日系音楽監督が始動

http://janjan.voicejapan.org/culture/0909/0909190463/1.php

   

さて、年末・年始はまたNYフィルに関する「楽しい苦労」だ。指揮者(故)バーンスタインによる音楽映像(DVD)シリーズの第4弾のリリース(1月27日予定)に向けて、最終チェックと準備だ。

ヒストリック・テレビジョン・スペシャ

http://www.dreamlife-shop.jp/?pid=16925447

フォード財団の提供により日曜日に家庭に届けられた連続TV教養番組だ。  

後述のごとく高邁、壮大な精神にもとづく、巨額の社会活動運動へのスポンサーぶりは、まさにアメリカ的慈善精神だ。

超富豪の驚くべき慈善事業 2008/06/30

http://janjan.voicejapan.org/world/0806/0806290802/1.php

巨匠バーンスタインの溌剌たる姿をモノクロームの画面に見ながら思わず引き込まれる。  

佐久間公美子氏による字幕は音楽評論家を唸らした定評のある名訳。  

著作権のクリア、画像の修復(極く稀に画像のブレもあるが)に2年以上も費やした結果だけに、筆者の感慨はひとしおだ。  

 

Disc3:「クリエイティヴパフォーマー」では「鬼才」グレン・グールドが若々しく登場。(1960年1月31日放映)  

バッハのピアノ協奏曲二短調第一楽章を共演する姿から、全身とがった神経そのもののあの「唸り声の緊張感」が映像で伝わってくる。  

27歳にしてまさに妖気すら発している。

 

グールドはその後1964年には演奏会から引退して、録音一筋になった。  

そして、グールド、ファレル(ソプラノ)に続き、ストラビンスキーが「火の鳥」を自作自演する。

 

Disc2:「ベニス」(1959年11月22日放映)においては「フィガロの結婚」から始まり、モーツァルトが主体。ことにピアノ協奏曲17番ト短調KV453でのバーンスタインの「弾き振り」は見事で、かつ、楽しい。  

Disc4 :「リズム」(1960年3月13日放映)は「答のない質問」のような高度な音楽論というよりは「Young People’s Concert」に見られるごとき、楽しさいっぱいの音楽講義だ。  

これらの音楽映像は高度で、しかし分かりやすい音楽啓蒙番組としての魅力は勿論なのだが、それにまつわる様々の地政学ともいうべき背景の貴重な記録となっており、 思わずうならされる:  

Disc5は「ベルリン」(1960年11月24日放映)。バーンスタインとNYフィルは1960年ベルリンに演奏旅行をした。  

当時のベルリンは政治的にも非常に微妙な時であり、そこでの9月18日から10月4日のベルリン祝祭週間に向けての演奏旅行だった。  

それにはフォード財団が15万ドルに及ぶ経費を負担した。9月23日の同地における収録には多くの学生を呼んでいる。  

 

なお、小澤征爾氏がバーンスタインと初めて会ったのも、このベルリンでの数日間である。翌年5月、NYフィルの日本初公演において、副指揮者としての小澤氏はバーンスタインに励まされ、指揮台に上っている。

「Young People's Concert」から「題名のない音楽会」2009/01/31

http://janjan.voicejapan.org/culture/0901/0901316539/1.php

東西ベルリンの交通が遮断され、「壁」が築かれたのはその3ヶ月後、1961年8月31日のことである。  

折りしも今年2009年はベルリンの壁崩壊20周年だが、崩壊直後の1989年12月25日、バーンスタインは、ベートーヴェンの第九交響曲を、バイエルン放送交響楽団を主体に編成されたオーケストラを指揮して、合唱のFreude(喜び)をFreiheit(自由)と言い換えて演奏した。バーンスタインはこの時点は自分の病気を知っていたゆえに、壮絶な演奏であったろう。

ベルリンの壁崩壊20年」に思う 2009/11/10

http://janjan.voicejapan.org/world/0911/0911102955/1.php

Disc1の「モスクワ」(1959年10月25日放映)こそ、センセーショナルだ。  

1959年8月から10月にかけてNYフィルは10週間にわたり近東およびヨーロッパに演奏旅行をした。うち、「鉄のカーテン」の向こう側であるソビエト連邦訪問は、ウクライナからアメリカに移民したロシア系ユダヤ人の息子のバーンスタインには格別の思いがあったのかもしれない。  

9月11日のチャイコフスキー記念モスクワ音楽院大ホールでのレクチャー・コンサートでショスタコービッチ交響曲第七番が演奏された。観客の中にいた作曲家が、 招かれて舞台に上がっている。  

これらのことは評論家山崎浩太郎氏によるライナーノート(ジャケット解説)に舌を巻くほど詳記されている。

山崎浩太郎のはんぶるオンライン

 

因みに、今年6月7日、辻井伸行氏が中国人ピアニスト張昊辰と同時優勝したクライバーン・コンクールのクライバーンがモスクワにおける第一回チャイコフスキー・コンクールで優勝したのが、前年の1958年4月だ。  

さて、来る2010年はバーンスタイン没後20年。  と、同時に世界の若手音楽家の育成を目的として彼が創立(と同時に他界)の札幌PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)も20年を迎える。

PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌)

  

以下、バーンスタインの指揮ぶり、講義ぶりのさわりを楽しむことができる。(音が出るので注意)

 

https://web.archive.org/web/20051216123235/http://www.dreamlife.co.jp/menu/6003.html

日本語版DVDシリーズ第一弾: (答のない質問)

http://www.youtube.com/watch?v=hsGXGvRX2RU&feature;=related

バーンスタインのレクチャー

http://janjan.voicejapan.org/culture/0512/0512080085/1.php

第二弾: (メモリアルボックス

http://www.youtube.com/watch?v=79WB6Apsqa0&feature;=related

バーンスタイン新発見!オペラ「タヒチ島の騒動」の楽しさに驚く

http://janjan.voicejapan.org/culture/0603/0603030204/1.php

 

第三弾: (音楽のたのしみ)

http://www.youtube.com/watch?v=tDe-cDgnQgA

マンハッタンでの「バーンスタイン祭」 

http://janjan.voicejapan.org/culture/0810/0810270312/1.php