浜地道雄の「異目異耳」

異文化理解とは、お互いに異なるということを理解しよう、ということです。

【第346回】 駿河(静岡)訪問記(2/2)~ 焼津・小泉八雲からニュー・オルリンズに想いが跳ぶ

承前:

【第345回】 駿河(静岡)訪問記(1/2 )~ 日本平から臨む清水港 - 浜地道雄の「異目異耳」

所用で静岡を訪ねた。久しぶりのこととて、この機に日本平から焼津を訪ねた(2月12日):

余り知られてないが、明治の文豪小泉八雲 (Lafcadio Hearn  )はこの焼津の地を気に入り、毎年、夏の多くの時間を過ごした。

そこでの生活、関連情報は焼津小泉八雲記念館(焼津市文化センター内)URLに詳しく、興味深い。

焼津小泉八雲記念館|焼津市

プロ中のプロ・国際ジャーナリスト会田弘継氏も熱心に見学している。

同道の会田弘継氏と

 

さて、筆者(浜地)のとんでもない想いは、米国ルイジアナ州ニュー・オルリンズに跳ぶ。

 

ギリシャ生まれのアイルランド人、ハーンは幼くしてアイルランド(ダブリン)に父の転任により移住。そしてイギリスの学校に入学。その後「さすらいの人生」が始まる。

1869(明治2)年、リバプールから移民船に乗り、アメリカにわたる。まずオハイオ州シンシナティで勉学に励み、新聞記者となる。

その後、1877(明治10)年にニュー・オーリンズに住まう。

そしてそこで、1884(明治17)年に開催された万国産業綿花博覧会で、日本から出品された美術工芸品を通じて日本文化に触れたことが、ハーンと日本を結ぶ重要な契機となったわけだ。

 

ハーンはそのニュー・オルリンズでは「バーボン・ストリート」に住んだとのこと。

ハーンが寄住したBourbon Street 516と取材メモ(小泉八雲記念館)

バーボン・ストリートBourbon Street!! ジャズの本場。飲食店を中心とする盛り場だ。

拙稿後段。

【第340回】「月刊グローバル経営」寄稿第100回にあたり~review回顧とprospect展望(2/2) - 浜地道雄の「異目異耳」

 

ハーンはその盛り場でどのように過ごしたのであろうか。

想いはヒョンなところから、グルグルと回り始める。

 

1891(明治24)年、ハーンは松江の元士族の娘・小泉セツと結婚。その後、熊本、神戸、に移住。

1896年(明治29年)45歳でイギリスから日本に帰化して「小泉八雲」となった。

 

 

小泉八雲の墓は東京の雑司ケ谷にある。