2008年3月15日
ウッドローンにある高峰家の墓廟(「高峰譲吉とその妻」より) |
3月5日、マンハッタン北に眠る野口英世と高峰譲吉の墓に詣でた、と書いたが、実は当日、思いがけない氷雨で、徒歩では結局、高峰譲吉の墓には至れなかった。(右写真 上)それほど広い墓地公園である。
参考:【第152回】マンハッタン北に眠る野口英世と妻メアリー - 浜地道雄の「異目異耳」
折しも3月8日、東京でJapan Society(日本協会NY)の創立100周年記念シンポジウムが開催されたことでもあり、その初代副会長を務めた高峰譲吉のことに触れないわけにはいかない。
Japan Society 100 Years - Japanese Centennial Press Release
セントルイス万博の日本間(「高峰譲吉とその妻」より) |
その日本協会設立の2年前1905年、ニューヨークの日本倶楽部が日本人相互の親睦と情報交換、日米間の経済・文化の交流と相互理解の促進を目的として設立され、高峰が初代会長となった。
医学博士であり、三共製薬(現、第一三共)初代社長など実業家であり、日本政府役人であり、民間大使であった高峰譲吉に関するサイトは多々あるが、特記すべきはこれ:
・松楓殿
「高峰譲吉とその妻」(飯沼信子) |
マンハッタンから北東へ車で2時間ほどのニューヨーク州サリバン郡メリーワールドの広大な森の中に京都御所風寝殿造りをモデルとした荘厳な日本建築と庭園がある。松楓殿(しょうふうでん)は1904年(明治37年)のセントルイス世界万国博覧会での日本館を高峰が買い取って、はるばる移送、再建したものである。(右写真 中) 高峰はこれを米国各界の要人との社交迎賓館として使用した。
高峰1世から2世にかけての栄華衰勢ぶりは、再び、飯沼信子氏の「高峰譲吉とその妻」(新人物往来社)に詳しく、実に驚くべきドラマとなっている。(右写真 下)なぜか、同書にある「2世ジョウが猛スピードで田舎道を走ったスタッツ・ベアキャット」という記述が筆者の脳裏には残り、某年、荘厳な日本建築と庭園に圧倒されながら、うっそうと茂る並木に立って、その華やかなプレイボーイの往年の姿を思い浮かべたものである。
アメリカ橋(恵比寿)のたもとのプレート。「AMERICAN BRIDGE COMPANY OF NEW YORK 1906 U.S.A.」とある。 |
斜陽になった高峰家は松楓殿を手放すが、大戦中これを維持したのは格付けで有名なMoody家であったことも企業情報ビジネスにあった筆者には印象的である。
余談を言えば、東京の恵比寿ガーデンプレイスに隣接する通称「アメリカ橋」(正式名称=恵比寿南橋)は1904年開催のセントルイス万博に出展された橋を旧国鉄が購入、1926年山手線を跨いで架設されたものだ。恵比寿ビールは同万博にてグランプリ受賞している。ホットドッグ、ハンバーガー、アイスティーが初めて提供されたのも同万博の時だ。
もう一つ余談ながら、高峰は1884年12月、綿布地展示の日本政府代表の1人としてニューオリンズ万国産業博覧会を訪れ、そこで後に妻となる米国女性キャロラインと出会った。当時同市に住んでいたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が万博日本館の展示に強い関心を持ち、これが日本に行くこととなった動機であると言われている。2人がその場で出会っていたのかも知れないと想像するのは楽しい。