浜地道雄の「異目異耳」

異文化理解とは、お互いに異なるということを理解しよう、ということです。

【第130回】アフガニスタン侵攻失敗の教訓・ハッサーニ氏の思い

 

2007年1月16日

 

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NHK教育(ETV)より

ハッサーニ氏は現在、政治亡命者、難民としての 生活を余儀なくされているが、奥方と5人の子供らと共に、千葉県四街道市アフガニスタン料理店を経営、未来を目指している。

1月13日、土曜日、午後10:00-11:30に放映された、NHK教育TV・ETV特集『アフガン戦争』を、1時間半、息もつけぬ緊張感で見た。 

9・11で突然脚光を浴びたが、実はその根に深く存在する(旧)ソ連の侵攻に続く、アメリカの侵攻――。

それらの事情は、余りにも複雑、かつ、長いので番組解説を下記に引用する。  

【1979年12月のアフガン侵攻。ソ連邦崩壊の引き金となっただけでなく、現在の世界規模で続く対テロ戦争の発火点でもあった。なぜアフガン侵攻は決定され、なぜ、戦火は長引いたのか。  

今回、ロシア連邦アーカイブから旧ソビエトの意思決定を物語る新資料が公開された。それによると、クレムリンは当初侵攻に懐疑的であったが、アメリカの影に疑念を強め、介入を決断した。しかし、1か月で撤退する予定だった計画は、アメリカのゲリラ支援により大きく変更を余儀なくされる。10年に渉る戦闘は泥沼に陥り、100万人を超える犠牲を招いた。撤退を求める声が何度もあがりながら、クレムリンは決断を先延ばしにし続けた。  

アフガン戦争。そこには大国の小国への介入が当事者の予想をはるかに超えて発展し、それに翻弄されていく大国の姿が凝縮されている。初公開の資料とロシア、アメリカ、アフガニスタンの関係者の新証言でその実態にせまる】(引用終わり)  

実に根の深い問題を、クレムリンホワイトハウス、そして、現場である アフガニスタンパキスタンと文字通り時空を越えての取材、系統だった放映には感心するばかりだが、筆者にとって、もっとも印象的だったのは、登場した旧ソ連の対アフガニスタン侵攻時の軍事責任者のことば:

アフガニスタンを外国人である我々が(軍事力をもって)支配し、変えようとしたことは失敗であり、自分自身忸怩たるものがある。その国の問題は、その国の主導で解決せねばならない」である。

さて、これらの歴史的事実を、裏側というか現地側から見てきた人物が身近にいる。

関連記事:【第129回】元アフガン大使、難民状態から永住権へ! - 浜地道雄の「異目異耳」

その元アフガニスタン駐日大使、ムハンマド・アーシフ・ハッサーニ氏は9・11テロ事件直後、2001年11月号の「新潮45」で アフガニスタンの知られざる「現実」を語っている(特集・アメリカvs.イスラム、「緊急特別手記」「タリバンイスラム教徒なんかじゃない」。かってソ連と戦い、いまはタリバンから追われる前政権幹部が、アフガニスタンの知られざる「現実」を語る) 。筆者はその取材・翻訳を協力した

ムハンマド・アーシフ・ハッサーニ氏・略歴>

1950年、北部のハザーラ人(東洋系少数民族)として生まれる。

1975年、国立カブール大学医学部に進学。  

1979年12月にソ連軍事介入開始。  

3ヶ月前に大統領の座を奪っていたハフィズラー・アミンが処刑され、バブラク。カルマルが政権に就く。

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アフガニスタン戦争戦没者記念碑

ハッサーニ氏は反政府運動に参画。それから1981年、卒業。医師資格を得たが、KGBに逮捕され、9ヶ月間拷問にあい、17年の禁固を宣告さる。 その刑務所にいる間の、1986年5月 カルマルが辞任し、秘密警察長官のモハンド・ナジブラーが大統領に就任。ハッサーニ氏は脱走、イスラム運動の政治補佐官としてソ連と戦った。

ソ連軍は1988年5月に撤退を開始し、1989年2月に完了する。

その間に、150万人が死に、500万人がイランやパキスタンに脱出した(写真:戦争戦没者記念碑)。  

1990年、ハッサニ氏らムジャハディーン派(ムジャヒディン派 / ソ連対抗グループ、「イスラム聖戦士達」の意)は、アメリカ政府の招待で訪米、連邦議会アーカンソー州(当時の知事はクリントン)を含む各州を訪問。  

92年4月16日、ナジブラーが辞任し、14年間続いた共産主義体制に終止符を打つ。  

ハッサーニ氏は1992年8月―1993年5月、駐日代理大使をつとめたが、ムジャヒディンは民族や地域ごとに分立し、内戦状態になる。 そこで、帰る国も場所もなくした同氏は1993年5月、UHCR(国連難民高等弁務官事務所)に政治亡命を申請、後に認められる。

1994年10月、パキスタンの支持を受けた、タリバンイスラム民兵が、アフガニスタンの舞台に登場する。1996年7月、そのタリバンがカブールを占領、ナジブラーを処刑し、「完全なるイスラム体制」を設立する。

1998年9月 タリバンが国土の80%以上を支配する。

2001年にはバミヤン(バーミヤン)の著名な大仏も爆破される。

そして、9月11日、ハイジャック機が、ニューヨークとワシントンでテロ。

10月7日・ブッシュ大統領アフガニスタンにあるテロリスト訓練キャンプと、タリバンの軍事施設に対する、アメリカの空爆の開始を宣言。

と承知の悲劇と混乱が続き、対イラク侵攻につながっていく。

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新潮45」2001年11月号

そのハッサーニ氏は現在、政治亡命者、難民としての 生活を余儀なくされているが、奥方と5人の子供らと共に、千葉県四日市市アフガニスタン料理店を経営、未来を目指している。

関連サイト:アフガニスタンレストラン バーミヤン (AFGHANISTAN RESTAURANT BAMYAN) - 四街道/南アジア料理(その他) [食べログ]

無国籍状態ながらも健気に生きる子供らにかける「日本とアフガニスタンとの架け橋に」というハッサーニ氏の思いは印象的である。  国際的最難題たる中東問題を「日本主導で」という筆者のとんでもない発想の所以はこのソ連アフガニスタン侵攻が失敗し、アメリカもそれに続き泥沼化しているという 現実を目の当たりにしてのことである(「国際的最難題を日本主導で」という、とんでもない期待)。

折しもブッシュ米大統領イラク侵略の間違いを認め、しかし、なおかつ、派兵増員を発表した。同時に日本においては防衛庁防衛省に昇格した。

筆者のもっとも危惧するところは、つまり、ブッシュ政権の「強い要請」である自衛隊の海外派兵の正当化の危険性にある(文化の衝突――「勝てない戦い」からは、直ちに撤兵を求めたい)。https://www.cfiec.jp/wf/magazine/0375/0375_J.html

インターネット新聞 「JANJANより転載・加筆。