浜地道雄の「異目異耳」

異文化理解とは、お互いに異なるということを理解しよう、ということです。

【第251回】 あいまいなグリッサンド - 美しい文化について

 

 

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百人一首



IIST World Forum 2003年12月15日 掲載

 

人間関係が重要な日本の社会。そこでは曖昧さは美徳ですらある。これを800年もの昔の皇女の悲恋詩になぞらえて解説する。

 

「玉の緒よ

 絶えなば絶えね

 永らえば

 忍ぶることの

 弱りもぞする」

 

という百人一首に納められているこの式子(しきし、しょくし、或はのりこ)内親王(1201年没)の歌はいかにも哀しい。

玉の緒とはキラキラ光ったビーズ玉が細いながらも脈々とつながった紐、つまり人生、人の命の隠喩であろう。思うに、恋は忍ぶものであるというのは日本文化の真髄であり、「かなわぬ恋」「見果てぬ夢」というのはいつも胸を締め付ける。

「もっと単刀直入でいいじゃないか」「なぜストレートに言わないんだ」という問題提起はブッシュ大統領以下長年の日米貿易交渉で出て、しかし、確かにそうだがこの身に染み付いた感情、感覚というのはどうにも変わらない。時代も変わり、日本でも若い世代には通じにくい概念になりつつあるが、それでも、まだまだ「阿吽の呼吸」が重要な日本の社会ではある。

アメリカ人ビジネスマンにこう言ってみる。「デートの時『きれいな月だね』『星がきれいだね』というのはI love youという意味なんだ」と。相手は大笑いしてそれなりにわかってくれる。

とまれ、式子内親王が残した約400首の歌を全て英語に翻訳して出版するというのだから舌をまく。 その友人の「String of Beads(玉の緒)」(佐藤紘彰、ハワイ大学出版)と題する優雅な装丁の本の出版記念会に呼ばれた。

休日の夕方、マンハッタンのほぼ最南端にある会場はいわゆるウオーターフロントのガランとした倉庫街にあり、同行の妻は「ギャングでも出てきそう」と怖がるほどの風情。今は住居になってるロフト(上階)に上がると、その広いフロアにはグランドピアノや古い家具がおいてあり、本当に丁寧に自らの手をかけた渋いインテリアと相俟って居心地のよい生活スペースになっており、一種独特のほっとする空気がある。

三々五々集まってきた客は皆芸術家風の大人の紳士淑女。我が末娘はジーンズから持参した振袖に着替えて、恥かしがりながらも皆に褒められて緊張しつつも顔をほてらせている。

少しばかりアルコールが回ってきたところで詩の朗読会が始まった。私は所望されて尺八の独奏をする。雰囲気に相応しいように古曲を選び、(技術はともかく)心だけは込めて吹き上げた。竹に5つの穴を開けただけのこの楽器はメカニズムがない分だけ、ドレミファソという階段状でないなだらかな、つまりあいまいな音階(グリッサンド)がだせる。このあいまいな部分、割り切ることの出来ない流れが日本(文化)の特徴なわけだが、聴衆は多少なりとも評価してくれたようだ。

「あいまい」の反対語である「直接的」「ストレート」というのはアメリカ文化を表していると思うが、これにはいつも我が家での日常生活で驚かされる。「日本異質論」を振りかざすのみではことが改善しないのは事実だが、大事なのはこの800年前のプリンセス式子の切ない思いのように「違うのだ」ということを知り、それを理解しようとすることであろう。

大江健三郎氏はノーベル文学賞受賞講演(1994年)において、日本文化のはっきりしないという特徴を「あいまいな日本の私」というテーマで語った。(川端康成の「美しい日本の私」はそれに26年先立つ。)

「あいまい」が日本文化の特徴ではあるものの、一方、そのあいまいさからくる結果として過去に生じた悲劇、惨事の可能性にも留意せねばならない。第二次世界大戦はあいまいな「統帥権」から端を発したと言えよう。

この国際化、グローバライゼーションの時代にあっては、あいまい文化はあいまい文化として、同時に大江氏がいみじくもジョージ・オーウエルの言葉を借りて指摘のとおり、「人間味あふれたHumane」、「まともなSane」、「きちんとしたComely」、「上品なDecent」日本人でありたい。

 

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