2009年11月3日
ラトガース大学の日本人留学生(1872)。 「黄金のくさび」飯沼信子著 P.49 |
在ロサンジェルスのノン・フィクション作家 飯沼信子さんの著作には明治初期以後、海を渡った先達のロマンに満ちた知られざる人間物語(実話)が多く、惹かれる。
なかんずく、『黄金のくさび』(郷土出版社)にある海を渡った上田藩主の弟、松平忠厚 (1850-1888) が大陸横断鉄道敷設に加わり、コロラドの土となって眠る物語は興味深い。
その松平忠厚は米ニュージャージー州、New Brunswick にあるラトガース大学に学んだ。
ニュージャージー州には多くの製薬企業があるが、New Brunswick には世界最大のヘルスケア会社 J & J(ジョンソン&ジョンソン)の本社があることでも知られる。
某年、仕事の関係で同州を訪れたので、車でマンハッタンから南西に向けて約一時間、紅葉の美しい秋の一日、同大学に寄ってみた。
1766年創立(全米で8番目に古い)の Rutgers ー the State University of New Jersey では7つのキャンパスで5万人の学生が学ぶ。
お目当ては同大学内の Alexander図書館。親切に迎え入れてくれる。
日本人留学生墓地 (Willow Grove墓地) |
そして、同大学の広大なキャンパスの近くの Willow Grove 墓地に眠る(主として肺結核のためと言われている)日本人留学生を訪ねてみた。
訪ねる同所はすぐに見つかったが、胸が痛むほどに荒れており、日差しの中、一画にはホームレスがいて色々話しかけてくる。まるで墓守であるかのように−−−。
比較的新しい墓誌には次の文字が読める:
IN MEMORY
TARO KUSAKABE, FUKUI APR.13.1830
KIJIRO HASEGAWA, HYOGO NOV.18.1871
KOSUKE MATSUKATA, KAGOSHIMA AUG.13.1872
JINZABURO OBATA, FUKUOKA JAN.20.1873
OTOJIRO IRIE, YAMAGUCHI MAR.20.1874
SHINJIRO KAWASAKI, KAGOSHIMA MAR.24.1885
TATSUZO SAKATANI, OKAYAMA APR.14.1886
小幡甚三郎の墓柱(写真1)以下、撮影すべて筆者 |
高さ2mほどの6本の角柱墓碑にはそれぞれ日本語で名前が掘られ、基礎部には英語で名前、出身地、死亡場所、年月日と年齢が書いてある。
読める範囲で列記すると:
まずは、前述のTARO KUSAKABEはこうだ:
「大日本越前 日下部太郎墓」
その土台の部分は大分風化が進み、読みにくい。
そして:
長谷川雉郎 TROY, N.Y. 23
松方蘇介 (英文ではKOSUKEとなってる)22
小幡甚三郎 29
入江音次郎 19
なども読める。
IN MEMORY OF TATSUZO SAKATANI
A NATIVE OF BITCHU, JAPAN
DIED AT NEW YORK CITY, N.Y.
APRIL 14, 1886
AGED 26 YEARS
は墓柱が欠けて、土台のみが残っている。
花瓶のつもりか、ペンキの空き缶に錆び止めなのか、銀紙が巻いてある。
いずれも花はなく汚水がたまっており、いかにもみすぼらしい。
小幡甚三郎の墓柱の土台部 |
さて、帰国して調べ物をしていて、偶然「三田評論」(8・9月号)の記事に接して驚いた。
ここに埋められた小幡甚三郎については「福澤諭吉がその人柄と能力をこよなく愛し、早世を惜しんだ」とのこと。
同記事の写真説明に「小幡甚三郎墓所(右から四基目)」とあるので、慌てて、撮ってきた写真をチェックしてみる。
確かに、松方蘇介と並ぶ墓柱には小幡甚三郎とあり、その土台部も読める(写真2)。
小幡甚三郎の墓柱の土台部
IN MEMORY OF
JINZABURO OBATA
KOKURA JAPAN
JAN. 28. 1873
DIED AT BROOKLYN. L.I.
AGED 29 YEARS.
他方、同記事の中では「墓碑が七つ並んだ」とあるが、掲載写真でも、筆者の撮影でも6本である。
頭部柱が欠損してる「J. OBATA」の墓碑 |
現場では、小幡甚三郎の墓柱のすぐ前の墓標に:
ERECTED
TO THE MEMORY OF
J. OBATA
との記載もあり、その頭部柱は折れている。
このJ. OBATAとは小幡甚三郎のことか?
そうなら、なぜ2本あるのか?
如何なることか知る由もない――。
墓所の一隅には
INFANT
DAUGHTER OF SABURO SUMA
TAKAGI
DIED SEPTEMBER 5, 1877
というのもあり、INFANT つまり幼児の墓だから、同地で結婚し、出産はしたが死亡したということ。哀れをそそる。
短い訪問だったが、腰をあげて、出口に向かいながら振り返ると、荒れた墓地の隅っこに墓柱が小さく見える。
夢果たせず異郷の地で眠る若者たちの無念の思いが伝わってくる。
まるで、わが子を残すような、文字通り後ろ髪ひかれる思いで同所を後にした。
なお、多くの日本人留学生をラトガース大学始め米国に留学させた橋渡し役はオランダ生まれのアメリカ人宣教師G.フルベッキだ。